梅雨前線1

終りゆく。そう感じてしまうから、性行為を、したり、するんだろう。愛しているからの行為、と言うには、ぼくはすこし、年老いて、生活というものに、疲れすぎている。

 

なぜこんなことを書き出したかというと、村上春樹は小説で、どうしてそこまで性行為を描くのか、ふと不思議に思ったからで。おそらく彼は、終りゆく、あらゆる景色は終りゆく、そういった物に囚われているんじゃないかと、そんなことをすこしだけ、思った。

 

終る、とは、失くなる、とは、また違う、始まり? それは知りませんが。終りゆくからこその、美しさや、関係性、そういったもの、そりゃ勿論。永遠や不滅、が実現出来れば好いのかも、しれないけれど、果たしてそれらは、衰退や消失可能性に、優るかは、ぼくには、まだ、判断できそうにない。

 

ただ言えることは、ぼくが生まれ育った「平成」という時代はまさしく、″衰退″を体現しつづけていたという他はなく。どの時代でも共通に、例えばぼくが憧れてしまう昭和時代にも、そういった雰囲気は流れていて、それを打ち消そうとしていただけに過ぎないのかもしれないと、そんなことを、すこし、思った。